厳寒期の二月のある朝のことであった。私は玄関の戸を叩いて大声で怒鳴る声に、目を覚まされた。道北にある中川演習林にいた頃のことである。
「オーイ。大将、大将はおるか」
その声はどうやら、猟師の高村の爺さんの声である。日ごろ爺さんからは標本用に獲物を分けて貰っており、世話になっている。今朝も何か持ってきてくれたのかもしれない。なおも爺さんは、ドンドンと戸を叩きつづけている。
「大将、起きろ。オーイ」
当時、単身赴任していた私は、ねぼけまなこをこすりながら、玄関の戸を開けに立った。猛烈に寒い。気温は零下三〇度を優に超えているようである。ようやく戸をあけると、そこに頬かぶりをした爺さんが、雪だらけの姿で立っていて、いきなり私に言った。
「北海道にクマは何匹おるんだ」
出合いがしらの難問に、私は思わず目をむいた。
「いったい、どうしたんですか」
「北海道にクマは何匹おるのか、それをわしは知りたい」
「――。まず、寒いから中へはいって下さい」
「いや、そうもしておれん。わしはそれを聞いてから、今日、札幌へ行こうと思っとる」
「ひどく真剣なその様子に、私はともかく彼を家へ入れ、話を聞くことにした。冷えきっている部屋に、私がストーブの火をつけている間ももどかしげに、爺さんは話しはじめた。
「クマを護ってやらねばならん」
聞けば、爺さんは昨夜一晩中、まんじりともせずに北海道のヒグマのことを考えつづけてきたのだという。
高村の爺さんは、道北では名うてのクマ撃ちである。長年にわたって道北のヒグマを追いつづけ、これまでに仕止めたヒグマの数は五〇頭を下らない。
だが、と爺さんは言うのだ。この数年、この地方のヒグマの数はめっきり少なくなってしまった。わしらはクマを撃ち過ぎたのではないか。そう思い始めて以来、ここ二、三年の間、爺さんはクマ撃ちをふっつりとやめていると言うのである。
爺さんは、昔のクマ撃ちの話をはじめた。若い頃から開拓農民として北海道の原野で暮してきた爺さんにとって、クマ撃ちは、いわば唯一の生きがいであった。心身ともに剛毅に生まれついたこの男にとって、巨大な野獣に命を賭して立ち向う一瞬こそは生きている証しでもあったのである。貧しい生活に耐え、過酷な労働に耐えて、ただ黙々と生きつづけるほかに何もないといってよかったこの僻地の開拓農民にとって、ヒグマこそは全身の血を燃えたぎらせる唯一の相手だったのだ。爺さんは旧式の村田銃一丁を頼りに、死にもの狂いでヒグマに立ち向い、これをうち倒してきた。
しかし、爺さんはいま、しみじみと語るのである。
「わしは、どういうものか昨晩、クマのことを考えだして眠れなくなったんだ。わしはたくさんのクマを撃ってきた。だが、あんな偉い生き物はおらん。あれは、大きくて、強くて、賢い生き物だ。あんなドエラい生き物を滅ぼしてはならんと思う」
私はいつか、爺さんの話にひきこまれていった。
「クマは、わしらの子々孫々にまで残さねばならん生き物だ。わしはこれからクマを護らねばならん。あれは、本当に恐ろしいケダモノだが、とにかくドエラい奴なんだ」
爺さんの寝不足で赤い目は、いつか底に光りを湛えている。爺さんは、これから札幌の道庁に行き、担当の役人にヒグマの保護を訴えようというのである。
そこで爺さんは、何はともあれ、まず北海道にクマが何匹いるかを知らなければならない、というのであった。それがわからなければどれくらいクマを獲っていいのかもわからないし、どれくらい保護しなければならないかもわからない――。聞いてみれば、まことにもっともな話である。
「それをあんたに聞こうと思って、夜が明けるのを待っとったんだ。あんたは動物を研究する博士じゃないか。クマは北海道に何匹いるのかい」
教師のつねとして、日ごろ難問をすり抜ける手管を多少は会得しているはずの私も、これには言葉に詰まってしまった。
「ウーム。なるほど……。しかし、そう急に言われても。これにはいろいろとむずかしい問題もあって――」
しかし、爺さんは容赦しなかった。
「そう言ったってあんた。あんたは学者でねえか!」
さすがの私も、この爺さんにはとてもかないそうもない。そこでついにこう言ってしまった。
「よし、わかった。ただし、明日まで待ってくれ。それまでになんかかんか考えとくから」
「じゃあ、頼んだよ。わしはあんたにそれを聞いてから、明日の朝、札幌へ出掛けて、道庁の自然保護課へ行くことにする」
爺さんは白い息を吐きながら、また雪をこいで帰っていった。
朝っぱらから脳天に一撃をくらった私は、そのあと、思わず頭をかかえこんでしまった。
(続きは『たぬきの冬――北の森に生きる動物たち』所収「ヒグマ数理学」)
石城謙吉
北海道大学名誉教授。専攻は動物生態学、森林科学。1934年、長野県諏訪市生まれ。北海道大学農学部卒業後、高校教員を経て、同大学院修了(イワナの研究で農学博士)。1973年から23年間、北大苫小牧地方演習林長。同演習林の森林を総合的自然研究の拠点とするとともに、市民と自然の交流の場として開放。著書に『イワナの謎を追う』『森林と人間』『自然は誰のものか』など。