【全文公開】心のカワウソ――『たぬきの冬』試し読み③

 北海道のどこそこにカワウソが現われた、という話はなかなかあとを絶たない。違うらしいということになり、人々が忘れかけたころになるとまた、カワウソ出現か、というような記事がどこかの新聞に載る。そしてそのたびに、動物相手の職業にたずさわる人間に問い合わせがくる。

 つい先日、そんな問い合わせが私のところにまわってきた。いわく、勇払原野の美々川の流域で、最近カワウソらしき動物を目撃した人がいる。いったい、北海道のカワウソは本当に絶滅したのか、それとも、もしかすると少しは生き残っているのか、あなたはどう思うか。
 美々川といえば、演習林の境界を流れる勇払川の支流である。しかし、私はすぐに答えた。
「北海道には、カワウソはもういないでしょう」
「ハァ、やっぱり、いませんか」
「いないでしょう」
「でも、するとその、カワウソらしい動物というのはいったい何者なのですか」
「たぶん、イタチか、野生化したミンクでしょう」
「――そうですか。カワウソではありませんか」
「違うでしょう」
「でも、カワウソが本当にいないという証拠はありますか」
「いないということは、証拠をあげることができません」
「じゃ、もしかすると――」
「いえ、いないでしょう」
 若い新聞記者の落胆ぶりは、気の毒なほどである。
 しかし、がっかりした新聞記者が帰ったあと、私はタバコをふかしながらあらためて考える。北海道には、どうみても、もうカワウソはいない――。

 人間やゾウは別として、たいていの動物は五十年も百年も生きつづけられるものではない。だから、ある種類の動物がどこかに生き残っているということは、単なる個体ではなしにその種族が生き残り、繁殖をつづけていることを意味する。そのためには、最低でも数十頭、あるいは数百頭といった大きさの個体群が存在しなければならない。
 しかも、カワウソはネコよりも大きな動物である。活動範囲もひろい。いかに用心深いとか夜行性であるとかいっても、これだけ開発が進み、すみずみまで大勢の人間の目が届くようになった北海道で、もしも実際にいるのなら、こんな動物が二十年にも三十年にもわたって実物や写真のかたちで姿を現わさないはずがない。
 しかし、はっきりしたかたちで現われるのは、いつもカワウソを見たという人間の方であって、カワウソ自身でないのだ。
 それに、大量の淡水魚を食べねばならないカワウソの、しかも個体群を養いうるほどの生産力をもち、また彼らに必要な隠れ場所や営巣場所を含む大面積の自然環境を残しているような河川や湖沼は、現在の北海道にはもう存在しない。カワウソはやはり、いないと思うわけである。

 むろん、いないということは立証の難しい問題である。動物には、いることの痕跡を残すものはいても、いないことの痕跡を残すものはいない。だから、痕跡があるということは、それがいる場合にかぎられることになるわけで、いないという論理に物証を添えることは、まず不可能といっていい。
 そこで、いない証拠がないからいるかもしれない、という単純な論理が横行し、ヒバゴンやネッシーが性懲りもなく生きつづけるのである。
 カワウソの場合も、いないという意見に添える物証はないのだから、これはあくまでもひとつの判断にすぎない。だが、この判断には、それなりに論拠はあるわけである。
 北海道のカワウソが絶滅した原因には、いくつかのことが考えられる。しかしなんといっても最大の原因は、その高価な毛皮ゆえの乱獲である。それに、彼らの食物であったサケ・マス類をはじめとする魚の激減と、流域の開発が追いうちをかけたのに違いない。
 しかしそれにしても、と私は思う。北海道のカワウソが絶滅してしまったのは、なんと残念なことだろう。

カワウソ(絵・石城謙吉)

 正直に告白すると、実は私も、カワウソに生き残っていてほしかった、いや、いてほしいと切に願う人間の一人なのである。北海道の田園や原野に、いまもあの魅惑的な動物がいたらどんなに素晴らしいだろう。
 しかし、カワウソにいてほしいと願うのは、そのためばかりではない。それは、カワウソがいるような状態こそ、河川とその周辺に健全で豊かな自然環境が保たれている証拠だからだ。それというのも、カワウソは淡水生物群集における食物連鎖の頂点に立つ動物、すなわちターミナル・アニマルなのである。そして生態系の基盤が損なわれ、生物群集の構造や機能が破綻をきたしたときに、まっさきに滅びるのが、ターミナル・アニマルをはじめとする食物連鎖の上位にある動物なのである。
 すると、これらの動物によって制御されていた多くの動物の個体群変動は、歯止めを失った不安定なものとなり、大発生を起こしたり、あるいはその反動で急激に減少してしまったりするようになる。カワウソのようなターミナル・アニマルが生きつづけているということは、豊かで健全な流域の生物社会が、安定した姿で存続していることのなによりの証しとなるのである。
 だから、カワウソがいなくなったということは、単にカワウソだけのことではないのだ。それは流域全体の生物社会が破壊されて貧しいものになってしまったことなのだ。

 それにしても、最近の北海道の河川はなんとひどい状態だろう。
 汚れた水、絶えず氾濫するようになった流れ、そして魚のほとんどいなくなった死の川は、工事が工事を呼んで単なるコンクリートの樋と化してゆく。
 しかし、私は最後に、しみじみと考えないではいられない。
 やはり、カワウソはまだ生きているのだ――。ただしそれは、勇払や石狩の原野ではなしに、失われた北海道の自然を懐しみ、滅び去った動物を惜しむ人々の胸の中に。
 カワウソは、今は失われてしまった、北海道の豊かな自然の象徴として、人々の胸の中に生きているのだ。そして、人々の心の中に生きつづけているカワウソが、いまでもときどき現実を求めてさ迷い出るのに違いない。
 きっと、多くの人々の心のどこかに、北海道の原野の片隅に、なんとかカワウソが生き残っていてほしいと思う気持があるのである。その気持が、水の中を泳ぐ動物の姿をちょっと見ただけで、ついカワウソだと胸を躍らせてしまい、つまりは「カワウソ出現か!」の誤報記事が新聞にでることになるのだ。なんとあわれ切ない人の心だろう。
 そこで、私は思わずにはいられない。ではせめて、人々の胸の中に住むカワウソだけでも保護できないものか――。
 
 それにはもう、こうするほかはない。つまり、カワウソを見たと思った人は、そのことをなるべく人に話さないことだ。
 勇払原野にしろ、サロベツ原野にしろ、かつてカワウソたちが暮していた湿原に、いまは昔日の面影はない。しかし開発に食い荒らされた原野のあちこちには、それでもまだ、湿原の断片が残り、そこだけを見れば、川はなんとか自然の面影を残して流れている。
 そんなところで、なにか動物の影が動き、ひょっとしてそれはカワウソではないか、と思ったならば、その人はその想いを大切にし、それをそっと胸の中にしまっておくことだ。
 また、万一、それを打ちあけられた人がいたら、その人はもっともらしい理由をあげてそれを否定してはならない。ただ一言、そうか、とだけ言うことにしよう。
 カワウソを見たと思った人も、それをそっと打ちあけられた人も、ときどきその場所をこっそりと訪れ、もしかするとここにカワウソがいるかもしれないという想いに浸る。それでよいのだ。現実のカワウソはもういない。しかし垣間見たカワウソの影は、その人の心の中にひそむカワウソの後ろ姿なのだ。そのカワウソまで滅ぼしてしまうことはない。
 野暮な調査などを行なって、それが実は、イタチやミンクにすぎなかったなどと、そんなわかりきったことをいまさら確認しても、いったいなんの役に立つのだろう。
 そんなことをするよりも、せめて、カワウソがいてもおかしくないような気分を起させてくれる、なけなしの自然を護ることに力を合わせよう。そこに心のうちなるカワウソを住まわせ、また残り少なくなった北海道の自然を愛する気持をつなぎとめるために。

(『たぬきの冬――北の森に生きる動物たち』より)


石城謙吉

北海道大学名誉教授。専攻は動物生態学、森林科学。1934年、長野県諏訪市生まれ。北海道大学農学部卒業後、高校教員を経て、同大学院修了(イワナの研究で農学博士)。1973年から23年間、北大苫小牧地方演習林長。同演習林の森林を総合的自然研究の拠点とするとともに、市民と自然の交流の場として開放。著書に『イワナの謎を追う』『森林と人間』『自然は誰のものか』など。

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