無限の宇宙、狩猟という名の豊饒

写真集西野嘉憲『熊を撃つ』に収録した、作家・探検家の角幡唯介さんによる書き下ろし寄稿文を特別公開しています。

 本書を開き、山之村という呼び名や、下之本、打保、和佐府という地名を見たとき、どこかで聞きおぼえのある名前だな、と思った。そして頁をめくり、写真をながめているうちに、ふと思い出すことがあった。
 私はこの地を知らないわけではない――。
 学生時代、厳冬期の薬師岳を登るために、この地をおとずれたことがある。二月に仲間と二人で大きなザックを背負い、神岡からバスにゆられて打保にむかった。そこから寺地山につづく雪の尾根をスキーでラッセルし、北ノ俣岳をこえた。薬師岳の近くで掘った雪洞は嵐でぶち壊され、私たちは近くの太郎平小屋に逃げこんだ。そこでしばらく停滞し、高気圧の晴天をつかんで登頂し、帰りに打保の近くの森のなかでツェルトをはって、一晩、バスを待っていた記憶がある。
 その後、べつの登山の機会にもう一度山之村を経由した気もするが、はっきりおぼえていない。記憶が朧げなのは、私はこの山村をただ通過しただけだったからだ。とにかく私がこの山村に足をはこんだことはたしかだ。だから私はこの地を知っているといえる。でも、このような熊狩りが累々とつづけられてきた地であるという知識は、まったくなかった。その意味で、私はこの地のことを知らないともいえる。

山之村から遠望する北アルプス。左奥が北ノ俣岳(西野嘉憲『熊を撃つ』より)

 もったいぶった書き方をしたのには、理由がある。
 この登山から二十数年がたった今、私は毎年冬から春にかけてグリーンランド北極圏をおとずれ、世界最北ともいわれるイヌイットの猟師村に半年近くものあいだ滞在している。今はやりの二拠点生活みたいなものである。目的は犬橇による狩猟旅行だ。冬の数カ月間、村を拠点に犬を訓練して身体をつくりあげ、春に一カ月から二カ月ほど村をはなれて、海豹や麝香牛をとりながら、さらに北の地へ放浪するのである。
 北極で狩りを前提に長旅をするようになってから、気づいたことがある。それは、まったくおなじ場所で活動するとしても、登山者(冒険者)と狩猟者では、土地をながめる視点がまったくちがうということだ。土地という空間の立ちあらわれ方、現象の仕方が、抜本的に変化するといっていい。
 実際にそういう瞬間があった。四年前の春、北緯八十度近辺の海氷のうえで海豹を追いかけているとき、私は、もっと北の地へ行けば、こことおなじように獲物の豊富ないい土地があるのだろうか、と想像をめぐらしていることに気づいた。同時に、周辺の地だけでなく、北極という地域全体を、獲物がいるかどうかという観点で俯瞰的にながめている自分を発見した。
 それは私にとっては革命的な視点の転換だった。それまで私は、踏査という登山者(冒険者)的な視点でしか北極をながめていなかった。いや、北極だけではない。あらゆる空間をそのような目で見ていたのだ。
 踏査という観点で土地をとらえてしまうと、北極のような雪と氷しかない大地は、単調で均質的な風景のひろがりにすぎなくなる。目的地に到達することが絶対の目標になり、途中の土地はただ通過するだけになってしまうため、どこもかしこもおなじような景観に見えてしまうのだ。ところが狩猟前提で旅をしたとたん、今ここで獲物があらわれるかどうかという別のパースペクティブで土地と接するようになるため、目の前の土地と自分が直接つながる。獲物のいる/いないという視点がはいるだけで、均質だった土地は一気にダイナミックなものに変化し、それぞれの土地の特徴が自分の生存に直結している。そのことに気づいたのである。世界にはおなじような場所などどこにもない。すべてが変化にとんだ魅力的な空間なのだ。

狩りの獲物が潜む「猟場」として山を俯瞰する(西野嘉憲『熊を撃つ』より)

 このとき以来、私は狩猟者の視点で空間をとらえるようになり、ゆっくりではあるが、じわじわとそれが強固になりつつあるのを感じる。今では踏査的視点ではとらえることができなかった、まったく別の大地を旅しているという感覚が、とてもつよくある。
 二十数年前の冬のあのとき、私は山之村の各集落に足をはこんだ。でもそれは登山者としてだった。そのすぐ傍らで、私とはまったくことなるパースペクティブをもった男たちが、私とはおなじ山にいるのだけれど、でもじつはちがった位相にひろがる山で熊を追っていた、という事実に、あらためて心が震えるような気持ちになる。
 登山(冒険)は近代以降のものであり、その意味で都市的な思考の産物だといえる。踏査が目的なので、どうしても空間的な広がりを求めるし、一度登ってしまったらその山には用がなくなってしまう。
 ところが狩猟によってとらえられる土地の位相は、これとはまったく正反対だ。猟師が相手にするのは山ではなく、正確にいえば山にいる獣である。登山者がねらう山頂はつねにおなじ位置にあるが、猟師がねらう獣の動きは、傾向があるとはいえ、毎年変化する。
 そのような、どこにいるのかわからない獲物というものを、猟師は捕まえようと努力する。獣の生態や動きに熟知し、地形や餌場といった自然環境の知識を深め、それを世代から世代へ引き継ぎ、狩りが成功する必然性を高めようと必死になる。だが、それでも、獲物が本当にそこにあらわれるのか、本当に仕留められるのかは、そのときになってみないとわからない。だから彼らの世界は、一度行ったら終わりというような浅いものではない。むしろおなじ場所に通えば通うほど知は深まり、狩りが上手くなってゆく。何度おなじ場所に通っても、そのつど新しい未知がひろがり、それが面白味につながる。
 そこにあるのは無限の宇宙としか呼びようのない世界だ。行くたびに変わる。何度通っても絶対的には読めない。狩猟は、そのような千変万化する生生流転の極みのなかでおこなわれる。標高何メートルとか、面積何キロ平米だとか、そういう数値というものでは決して測ることのできない時空の深みが、そこにはある。かりに猟場がせまい山間の一角であっても、獲物を追いかけるという行為が入りこんだとたん、その空間は絶対に汲みつくすことのできない永遠の大地として姿をあらわすのである。

深い知識と長い経験で獲物の気配を感じる猟師(西野嘉憲『熊を撃つ』より)

 世代から世代へ引き継がれる歴史的循環。仕留めた獲物を糧に生活をいとなむことで自分が自然の一部となる環境的循環。そして通っても通っても決して汲みつくすことのできない空間的循環――。
 猟師はこうした無限の循環のなかに身を投じる。土地がもたらす永遠のサイクルのなかで生きることにより、彼らは土地と調和する。そうすることによってはじめて熊が獲れる。仕留められた一頭の熊の背後にある無辺の広がりを想像すると、ため息をつくほかない。銃をかまえた男の眼光の鋭さに、深雪をかきわける彼らの足跡に、あるいは大熊にむかった銃弾の一瞬の煌めきに、その無限の宇宙が表現されているのである。
 熊は大地そのものであり、猟師も大地そのものだ。悠遠の彼方からつづけられてきた、とこしえのいとなみの豊かさに、私はもつべき言葉をうしなう。ここにこそ生きるためのすべてがある、と思う。


角幡唯介 

探検家、作家。近年は北極圏で犬橇を使った狩猟を続けている。主な著書に『狩りの思考法』『極夜行』『漂流』『アグルーカの行方』『空白の五マイル』など。開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞、新田次郎文学賞、講談社ノンフィクション賞、大佛次郎賞など受賞多数。

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清水弘文堂書房

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